本と映画と、少し寄り道

小説と映画の感想文をゆるゆると。

『悪女について』感想|有吉佐和子が描いた「悪女」は本当に悪女なのか?

「バイトの〇〇さんがしんどいって言ってました」「あの人なんか怒ってるみたいです」「あの人性格悪いので気をつけてください」。前職の店長時代、一緒に働いている人たちから「らしい」「みたい」という言葉をかなり多く聞いた。店長1年目のときは、それをすべて鵜呑みにしてしまい、「こんなに優しいこの人も裏では何を思っているのかわからない」と疑心暗鬼になったものだ。

 

例えば「あのお客様お怒り気味です」という言葉は、バイトの子からよく聞く言葉ナンバーワンだった。少々気合いをいれてバイトの子とバトンタッチをして接客を代わると、そのお客様は怒っているのではなく、単純にサービスのシステムを理解していなかっただけ、みたいなことが何度も起きた。人から聞いた言葉というものは、すべてその人のフィルターがかかっている。それに気付いてから、店長時代の私の信条は「自分で見たり聞いたりしたものしか信じない」だった。

 

◼︎『悪女について』/有吉佐和子

 

 

有吉佐和子の『悪女について』は、謎の死を遂げた実業家・富小路公子の物語。彼女に関わった27人のインタビューから構成されている物語なのだが、27人とも言うことが違う。公子のことを「良い人」と言う人もいれば、「悪い女」と話す人もいる。公子は本当に悪女なのだろうか?

 

公子は莫大な富を築いた実業家だが、ある日、所有するビルから転落死する。目撃者はおらず、他殺や自殺かも不明。生前の彼女と親交があった人々がインタビューに答えていくのだが、読み進めていくうちにどんどん謎は深まるばかり。最後まで読んでも理解しきることができず、私はもう一度頭から再読した。登場人物が多く時系列も混乱するが、決して難しい物語ではない。

 

◼︎小説でもありながらビジネス本の一面もある作品

 

彼女を「悪女」と思うかどうかは、結局は読み手に委ねられる。結論から言うと、私は彼女のことを「悪女」だとは思えなかった。途中で男を騙すようなことをしている描写があり、それによって不幸になる人が出てくる。彼女の行動すべてを肯定はできないが、「なりたい自分」を徹底的に追求する姿勢には、シンプルに尊敬の念を抱いたし、学ぶべきものもあると感じた。

 

彼女はおそらく幼い頃から「なりたい自分」を持っていた。そのために近所に住んでいた公家華族出身の女性の上品な言葉を盗み、仕草を盗み、自分を作り上げていく。理想とする自分になるために、相手によって話し方を変え、人の心までも盗んでいった。そこまで徹底して自分を作ることは、簡単ではなかったはずだ。

 

公子は夜学に通って簿記を学ぶなどして積極的に知識をつけていた。なりたい自分になるための努力を惜しまず、自分で得た知識を使って人の心と金を動かす力は、かっこいいとさえ感じる。本作は優れた小説だが、ビジネス本としての役割も担っていると思う。

 

◼︎受け取り側のフィルターで変わる人物評価

 

人は誰でも多面的だと思うし、万華鏡のようなものだと思う。眺める角度によって、見え方が違うのだ。ものすごく明るい色に見えることもあれば、暗い色が重なって見えるときもある。そして受け取り側にもまた、自分の価値観からできたフィルターがかかっている。

 

以前、女優の芦田愛菜さんがイベントで発言した言葉が話題になった。「信じること」について芦田さんは、「『信じます』ってよく聞く言葉ですけど、それはその人ではなくて、自分が理想とする人物像に期待していることなのかもしれないと考えたんです。だからこそ人は『裏切られた』とか言うけれど、それはその人の見えなかった部分が見えただけであって、そのときに『それもその人なんだ』って受け止められる揺るがない自分がいることが信じられることなのかな、と思った」と話していた。

 

公子のことを「悪い女」と表現した人物は、自分の理想像を公子に当てはめていただけかもしれない。そしてこの物語のおもしろいところは、すべてが人からの目線で語られているため、本当のところはどうなのかわからないことだ。だからこそきっと読み手によってさまざまな答えがあり、考えがある。結局のところ、自分で聞いて自分で感じてみないと、人のことはわからない。たとえ自分の理想と違っていたとしても、自分の目を、耳を私はずっと信じて生きていきたいと改めて思ったのだ。

 

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『植物少女』朝比奈秋――静寂の中にある「生きる」ということ

病室にはあらゆる匂いが混ざっていて、それがなんの匂いなのかわからない。消毒の匂いはもちろん、患者ごとに違う食事の匂い、患者の匂い、そして自分の匂い。マーブル模様のようなその香りは、きっと病院にずっといる人か、通ったことのある人にしかわからない。この物語を読んで思い出したのは祖母のことだ。もうすぐ祖母の命日がやってくる。そのタイミングで本書を手に取ったのも、何かの縁なのかもしれない。

 

植物状態の母と娘の静かな物語 『植物少女』/朝比奈秋

 

 

物語は、主人公・美桜の母が亡くなることから始まる。美桜の母は、美桜を出産した際に脳内出血で植物状態となった。美桜は母の死をきっかけに、これまでの自分と母の人生を振り返っていく。

 

幼い頃から美桜は病院で寝ている母のもとを訪れていた。そこで美桜は母にもたれかかって眠ったり、母の髪を染めてみたり、母の耳にピアスを開けてみたり、好き放題していた。幼い頃の美桜は、何も話さない母を相手になんでも報告することができた。いじめられていることや祖母と父が仲が悪いこと、心に溜まった澱をすべて母に預けた。

 

この物語は、美談ではない。奇跡的なことが起きる物語でもない。私たちはただ静かに、美桜と母の親子の時間を見守るだけだ。優しい気持ちになるとか、感動するとか、そんなことも正直なく、一言で言えば淡々としている。

 

しかしそれは決して悪いことではない。「生きる」とは、本当はどういうことなのだろう。喜んだり、悲しんだり、怒ったり、喜怒哀楽だけが「生きる」ということなのだろうか。私はこの物語を読んでからは、決してそうとは思えなくなった。ただ、そこにいる。ただそこで呼吸をしている。365日、一瞬一瞬を確かに生きている。

 

著者の朝比奈さんは、現役の医師だ。だからこそ、そこにリアルがある。そんな朝比奈さんが、この親子の物語をこのように淡々と、静かに描いたことが、「生きる」ことの答えなのかもしれないと感じた。

 

◆しわしわで冷たい祖母の手

 

この物語を読んで、私は一昨年亡くなった祖母のことを思い出さずにはいられなかった。病室の描写で、私はすぐにあの匂いを思い出した。病室の、なんともいえない匂い。決して好きとは言えないし、楽しい思い出があるわけでもない。しかし、その匂いが思い浮かぶと同時に、ベッドに座っていた祖母の表情も思い出す。

 

元気な頃はとても厳しく、喧嘩することも多かった祖母。入院をして、記憶が少しずつ曖昧になってからの祖母は、とても穏やかだった。祖母は若い頃に苦労したのだという。そんな苦労を背負っていたからこそ、娘である母にも孫である私にも厳しかった。入院してからは、まるでその鎧が脱げたかのように優しい祖母になっていた。

 

だんだんと私の名前を呼ばなくなり、焦点が合わなくなり、寝ている時間が増えていっても、たまに驚かされることがあった。それは、“握る力”だ。私が手を出すと、驚くほどに強く握り返してくれることがあった。もちろんなんの反応も返ってこなかったこともある。

 

力強さと、しわしわの手。骨ばっていて、いつも冷たかった手。きっとあの感覚は、これからもずっと私のことを守ってくれる。

 

◆静寂の中で「生きる」

 

本作でも、“手”が美桜と母の思い出に深く関わっている。美桜と母の意思疎通はきっと、できなかったのだろう。母が美桜を娘だと認識したことはきっと、なかったのだろう。しかしそれでも母は確かに生きていたし、美桜と繋がっていた。

 

「生きる」とはきっと、そこまで大げさなことではない。「生きる」とは、淡々とした生活の中にあり、実はとても静かなことだ。

渡辺優『アイドル 地下にうごめく星』レビュー|夢は呪いか、それとも希望か

幼い頃に描いた夢に、ずっとたどり着けると信じていた。現実を知るにつれ、それは本当におとぎ話のようにふわふわしていた夢なのだと思い知る。夢が叶うことなんて、とても稀なのだということを知る。諦めなければ夢は叶うなんて、それが真実だったら、2人に1人はスポーツ選手になっているのではないだろうか。渡辺優さんの『アイドル 地下にうごめく星』は、夢と現実に揺れる人たちのとてもリアルな物語だ。

 

◆魅力的なキャラクターの詰め合わせ『アイドル 地下にうごめく星』/渡辺優

 

 

本作は、40代の会社員・夏美、夢を捨てきれない23歳の楓、女装趣味の男子高校生の翼、現実が辛くて自分は天界から来たのだと思い込む天使ちゃん、東京でアイドルをしていたが戦力外通告をされてしまった愛梨という登場人物5人の視点から語られる。物語は、40代半ばの会社員・夏美が、同僚に誘われて地下アイドルの現場に行くところから始まる。夏美はそれまでアイドルにまったく興味がなかったが、ある一人のアイドル・楓に一目惚れする。

 

「その瞬間、もう、すべてが揺るぎなくなった。恋とはするものではなく、抵抗もままならず、真っ逆さまに落ちるものだと聞いたことがある。その点でいうなら、これは恋だ」。

 

これから楽しいオタク生活が始まるのだと思った瞬間、楓が所属していたグループの解散が決定。夏美は自分が楓をプロデュースしようと決めた。

 

そんな楓は、ずっと自分の夢にとらわれていた。それは宝塚歌劇団に入りたいという夢だ。もう年齢制限は過ぎ、楓はどうがんばってもその夢を叶えられない。楓はその夢を「呪い」だと言っている。もうアイドルから降りようと思った矢先に、夏美からスカウトされる。

 

楓たちは、全員自分の夢や目標、なりたいものを抱えながらも不安も抱いている。特に楓が自分の夢を「呪い」だと呼ぶのはリアルだ。楓は、彼氏からプロポーズされて泣いてしまう。決してうれしいからではない。自分の夢が「死」に向かっていくのだと自覚してしまったからだ。

 

「私は自分の人生が、死に向かって静かに閉じていく気配を感じていた。結婚したら、宝塚歌劇団には入れない」。

 

ここまで読むと、きっと4人と夏美がスターダムを駆け上がる物語だと思うだろう。しかし、そうではない。この物語は驚くほど現実的な物語だ。彼女たちが悩み、選び取る生々しい行動を、ぜひその目で見届けてほしい。

 

◆現実を生きている限り夢は消えない

 

幼い頃、夢を叶えられると信じて疑わなかった。私はあるアイドルが好きで、そのアイドルがいるテレビの中の世界に自分も入れると思っていた。自分をかわいいとは思っていなかったため、かわいらしさが求められるアイドルは無理だろうと察していた私は、女優にならなれると思っていた。女優は顔だけを求められるのではなく、雰囲気や演技力で勝負できると思ったから。

 

ずっと女優になりたいと言い続ける私に、母は言った。「中学生になってもなりたかったら、事務所のオーディションを受けよう」と。今考えると、なんて夢に寛大な母なのだろうと思う。ウキウキしていた気持ちで過ごしていた小学校時代。しかし中学生になると、アイドルになりたいと言っていた子も歌手になりたいと言っていた子も、夢を語らなくなった。

 

そうして自然に「夢は夢なのだ」と悟った私は、将来を考えるにあたって夢を探すことになる。夢や進路で悩みに悩んだ私は、最終的に同じ夢にたどり着いてしまう。女優とまではいかなくても、「芸能界」に近い世界にいたかった。これは楓のように呪いのようなものだった。

 

現在私は直接的な芸能界にいるわけではないが、ドラマのレビューをするなど、文字を使って魅力を伝える仕事をしている。女優になると息巻いて悪役の高笑いの練習までしていたのに、表舞台とは距離がある。しかしそれでも満足はしている。

 

確かに夢は努力すれば叶うわけではない。生きているとさまざまなことが降りかかり、私たちはどんなに辛くても現実を生きなければいけない。しかし、私が夢見た世界も、楓たちが夢見ている世界も「現実」に変わりはない。夢は現実の延長線上にあり、地続きだ。

 

この物語は教えてくれる。夢と現実は地続きだからこそ、いつからでも始められるということ。私だって、10年後に女優になっているかもしれない。諦めなければ夢は叶うとは言わない。しかし、夏美や楓たちの、どこまでもリアルな悩みや気持ちを受け取ると、信じたくなってしまう。現実を生きる限り、夢はずっと終わらないということを。

 

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【読書感想】綿矢りさ『オーラの発表会』ー少し変わった女の子・海松子から学ぶ人との距離感

綿矢りささんが生み出すキャラクターはなんでこんなにチャーミングなのだろう。彼女たちが織りなす会話や、文字からだけでも伝わってくる空気感。まるでそこで一緒におしゃべりをしているみたいに楽しくて、一人でカフェでにやついていた私は相当変な人に見えたはずだ。本作の主人公・海松子は世間から見ると少し変わった女の子だ。綿矢さんの物語を読むと、どんなことも個性になるのだと強く実感させられる。

 

◆『オーラの発表会』/綿矢りさ 少し変わった女の子・海松子の物語

 

 

主人公は大学入学と同時に急に望まない一人暮らしをすることになってしまった海松子。彼女は少し変わっていて、人を好きだという気持ちがわからず、他人にもあまり興味がない。実家が大好きだが、両親から言われるがままに両親が決めたアパートで一人暮らしをすることになる。そんな彼女にも友達はいる。なんでも人の真似をして煙たがられてしまう萌音という女の子だ。しかし海松子はそんな萌音の性格を“個性”だと思っていたため、高校時代にいくら真似をされても他の人のように怒ることはなかった。この本は、人間関係という面で不器用な海松子が「他人と生きていくこと」を知っていく物語だ。

 

海松子は、人が食べたものを口臭から当てられる特技を持っていたり、脳内で人に変なあだ名をつけていたり。確かに変わっている女の子である。学食を食べた後の同級生のメニューを当てて困らせたり、萌音のことは心の中で「まね師」と呼んでいたり。ちなみにうっかり萌音を「まね師」と呼んでしまい、萌音を怒らせたこともある。周りの大人からは「いじめられている」と思われていることがあっても、本人はそれがいじめだと気づいていない。心がないわけではなく、自分の世界を自分らしく生きている。

 

◆世間の価値観をものともしないナチュラルボーン海松子

 

これは海松子が一人っ子であることも大いに関係しているように思う。作中にはっきりとは書かれていないが、海松子は両親から大きな愛情を受けて育った一人娘だと思われる。かくいう私も一人っ子で、両親と祖母から大切に育てられてきた。外で遊ぶよりも家が好きだったし、大人数より少人数が好きで、それは今も変わらない。そして子どもの頃から「マイペース」と言われてきた。この「マイペース」という言葉。子どもの頃は気づかなかったが、正直これはうっすら悪口だと思う。

 

「マイペース」とは、自分のペースを崩さない人、つまり人に合わせない人のことだ。もちろん良い意味で使っている人もいると思うが、私は散々言われてきたこともあり、どうしてもどこかに棘を感じる。一人っ子は、自分の世界を持っている人が多い。つい先日もエックスで「一人っ子あるある」が話題になり、エックス上の一人っ子は少々肩身の狭い思いをした。

 

そんな世間の価値観もあり、なんとなく「きょうだいは?」という質問が苦手だった。「一人っ子」と答えたときに、うっすらその場の空気が変わるのがわかるから。だから私は、家族や親友、彼氏など本当に自分と近い人間以外には人一倍気を使ってきた。嫌われないように、どんな空気の揺れも見逃さないように。

 

海松子はそんなことはしない。未経験のことにぶち当たったときに悩みはするが、自分を曲げることはしない。だからといって頑固なわけでもなく、友人の萌音の言葉は比較的素直に聞く。特に恋愛関係の問題になると海松子の脳はショートしたようになり、気持ちがわからなくなってしまう。そこで海松子は萌音に相談するのだが、バシッと音がするくらいに明確な萌音のアドバイスもおもしろい。

 

不器用ながらも人と関わり、時折パニックになってしまう海松子という存在が、私は愛おしくて、かわいくて、かっこよくてたまらない。周りとの距離感や少しの衝突ですぐに変わる関係性に怯えていた学生時代に海松子に会いたかった。

 

◆誰かと混ざり合うことで開ける宇宙

 

自分を置く環境が変わると、周りにいる人たちも変わる。その変化が私は何よりも苦手だった。大人になった今は、多少我慢して飛び込むことも必要だとわかっているが、学生時代はとにかくそれが悩みだった。新しいバイト、新しいゼミ…何度も想像してみた、なりたかった自分になれた試しがない。

 

少しずつ人と関わっていくことで、海松子の世界はどんどん開けていく。海松子が何か明確な努力をしなくても、自然に身を任せて誰にも飾らずにいると、周りの人と自然な関係性ができていくのだ。人は究極ひとりでも生きていけるが、他人と関わることによって新たな世界が広がる。自分でも思いつかなかった行動をしたり、出会うはずのない人と出会ったり。変わる空気に怯えて自分を隠さなくても、自然体でわかり合える人はどこかにいる。だって世界は私たちが想像するよりも広いのだ。

 

私は大人になった今でもひとりの時間が好きだ。本を読んだり映画を観たりぼーっとしたり、自分のペースで過ごすことが好きだ。それはきっと一生変わらない。しかし大人になってさまざまな人と出会い、経験をして、人と関わることの意味も知った。たとえそれが自分とは違う“変な人”でも、話してみるとまるで自分の中の宇宙が広がったような気持ちになる。

 

私の中では海松子もその一人。物語の登場人物との出会いは、いつも私の世界を広げてくれる。『オーラの発表会』は、誰かと関わるのが怖いと思っている人にとってお守りとなるような物語だ。

 

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【読書感想】朝井リョウ『武道館』と現実のアイドルー儚さに価値を見出してしまう美しい残酷さ

甘いキャラメルポップコーンをお供に読んでいたら、体型維持のために茎わかめばかり食べているアイドルが出てきてさすがに手を止めた。朝井リョウさんの『武道館』は、女性アイドルグループ・NEXT YOUが主人公の物語だ。単行本が刊行されたのは2015年。今から10年前の作品だが、女性アイドルを取り巻く根っこの問題は現在でも変わっていないように思う。

 

◆『武道館』/朝井リョウが描く女性アイドルの世界

 

 

主人公は幼い頃からずっとアイドルに憧れていた愛子。彼女はオーディションを経て、NEXT YOUの第一期生となる。歌って踊ることが好きでファンのことも心から大事に思っている愛子には、大切な幼なじみ・大地がいた。愛子は自分の気持ちとアイドルとしての立場で揺れることになる。

 

実は私はこの物語を随分前に読んだことがあり、今回は再読だ。当時私は男性のアイドルしか応援しておらず、全体を読んでもどこか客観的に捉えていた。何年か経ち、私は今、女性アイドルのことも応援している。この物語を読んでいる最中、愛子が何かを悩むたびに、私は応援している女の子の顔が浮かんでしまって苦しくなった。

 

何がしんどいって、彼女もきっとどこかでいろんなことで揺れているはずだと感じたからだ。例えば、恋愛感情で好きになりそうな人が現れたときに自分の中で警戒するランプをつけたり、アイドルの自分がドラマに出演するときにドキドキしたり、SNSでの誹謗中傷を見たり。すぐ隣にある残酷さが彼女を傷つけることがあると、今は昔よりも想像ができるから。

 

◆10年経っても変わらない「恋愛禁止」の構造

 

女性アイドルは男性アイドルに比べて“賞味期限”が短い。どこの誰が決めたのかは不明だが、何年経ってもアイドル界の常識、むしろ世間の常識として「アイドルは恋愛禁止」ということがある。そのため女性アイドルはほとんどの場合、グループをやめてから(=アイドルをやめてから)表向きの恋愛や結婚をする。現役アイドル中に恋愛をしてバレる子もいれば、隠し通したままの子もいる。

 

男性アイドルもファンに夢を見させる存在だが、30代以降は結婚する人も少なくない。それでもアイドルとして活動を続けている。

 

一方、例外もあるが女性アイドルは至るところで「清楚さ」が強く求められる。ピアスの穴を開けたことだけでも少し悪い意味で話題になる世界だ。アイドル界は朝井さんが『武道館』を書いた10年前と多少変わっていることもあるし、「ももいろクローバーZ」など例外となるアイドルもいるが、根本の部分は変わらないように思う。

 

◆握手会で感じた彼女たちの素顔

 

愛子は、途中で大地への思いで揺れる。応援してくれているファンを裏切ってもいいのだろうか。メンバーを裏切ってもいいのだろうか。これまで続けてきた自分の歴史を裏切ってもいいのだろうか。

 

愛子のそんな揺れを読んでいたら、応援している女の子の握手会に行ったときのことを思い出した。そのとき私は彼女に「女の子のアイドルを応援するのは初めて」と伝えた。彼女は「今まではモデルさんとかを応援してたの?」と聞いてくれて、私は「今までは男の子のアイドルをメインに応援してたんだ」と答えた。

 

すると彼女は「えっ!?誰誰誰っ!?」と、まるで恋バナをするみたいに目を輝かせて、前のめりで質問してくれた。そのときは女友達のようにはしゃいで話した。

 

よく言われることではあるが、彼女はアイドルである前にひとりの女の子だ。恋をしていたとしても誰にも言えず、そのはしゃいだ気持ちを隠さなければいけない。もしかしたら恋になったかもしれない出会いを、自ら見送ってきたかもしれない。

 

愛子の姿を見ていたら、彼女が楽しそうに「誰!?」と聞いてきてくれた顔を思い出して苦しくなった。もちろんアイドルという職業を選んだのはアイドル自身だし、「職業アイドル」をまっとうする責任はある。

 

◆矛盾を抱えながら向き合うアイドル文化

 

「アイドルは恋愛禁止」。これは私たちが決めた価値観でもアイドルが決めた価値観でもなく、ずっと前からいつの間にか決まっていた価値観だ。その価値観がアップデートされないまま、長く世間に根付いている。恋をしたらアイドルではいられない。そんな物語はあまりにも切ないけれど、そこにまたひとつ「儚さ」が生まれてしまうことも事実だ。彼女たちが歌っているとき、踊っているとき。崩れない前髪、落ちないヘッドドレス、ひらひらと舞うフリルのスカート。アイドルでいられる時間は限られていると知っているから、そのひとつひとつが時に切なくて尊い

 

その価値観は、頭のどこかでは問題だと思いながらも、感情的にはその儚さに価値を見出してしまう自分がいる。この矛盾した気持ちこそが、現在のアイドル文化の複雑さを物語っている。

 

いつか、アイドルも恋愛・結婚をして当たり前だと受け入れられる世の中が来るのだろうか。今から10年後、どんな世界になっているのだろう。

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朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』書評|視野の広さと狭さ、信じる力について考える

読みながら背筋がぞわぞわする感覚を何度も味わった。それは、この物語の登場人物が、限りなく自分に近かったからだ。朝井リョウさんは、人間と世界の解像度が高すぎる。自分が思っているけどうまく言葉にできなかった感情が言葉になっていて、どこか痛くて、ときどき叫びだしたくなった。なんて物語を世に産み落としてくれたんだ、朝井リョウさん。

 

◆孤独を感じる中で出会った“信じるもの”『イン・ザ・メガチャーチ』/朝井リョウ

 

 

朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』は、主に3人の視点で語られる。40代後半のレコード会社勤務・慶彦、大学生の澄香、30代半ばの非正規社員・絢子。彼らはまったく違う価値観と生活でありながら、それぞれが人生になんらかの不安と不満を抱え、孤独を感じている。その孤独の中で“信じるもの”に出会い、人生が動き出していく。まずこの年代設定から絶妙だ。大学生、40代後半、30代半ば。どのタイミングでも、自分のこれからの人生に悩んだり、振り返ったりする年代だろう。

 

その中でも私が一番共感できたのは大学生の澄香だ。海外に興味があった澄香は留学制度のある大学に通っているが、内に閉じこもる性格でいろんなことを気にするタイプ。MBTI診断ではINFPで、友人とは表面上はうまくやっているが実際は勉強も友人関係もうまくいっていない。自信をなくしていたところに、同じINFPのこれからデビューするアイドルグループ「Bloome」の道哉に出会う。

 

それまでアイドルにはまったく興味のなかった澄香だったが、道哉の“INFPらしさ”に触れ、自分と同じだと共感。そこから熱量高く道哉を応援するようになる。澄香の人生に、道哉と一緒に歩む物語が加わったのだ。アイドルを応援する理由はさまざまだ。歌やダンスが好き、顔が好き、性格が好き…いろんな理由やきっかけがある。そのアイドルが人生をかけて描く物語が好きだという人もいるだろう。私もその一人だ。

 

◆冷静さを失うほどに惹かれる“誰かの物語”

 

私には4年ほど応援しているアイドルがいる。テレビに多く出るタイプのアイドルではなく、ステージを積み重ね、メンバーが減ったり増えたりしながらも必死に努力してきたアイドル。私は彼の顔や歌やダンスが特に好きというわけではなかった。彼が何度も口にする夢と、その夢を語るときの表情、悔し涙、メンバーのことが誰よりも好きなところ、寝る間も惜しんで配信などをしてファンとの時間を作ってくれるところ、つまり彼の描くアイドル人生とその物語自体に魅了されている。

 

この本でも描かれていることだが、人は物語に弱い。特に澄香のように自分の人生に悩んでいる人は、誰かの夢に自分をまるごと乗せてしまう。だからこそ彼らの売上が大事で、彼らの喜びは自分の喜びに直結する。澄香はCDを何枚も予約し、YouTubeの視聴回数を増やすことに必死になる。明らかに自分の力ではどうにもできない金額を彼らに注ぎ込む。澄香の行動ははっきり言って冷静ではないが、私はこのときの澄香の気持ちが痛いほどよくわかる。

 

私が応援しているのは接触ができるタイプのアイドルで、CDが発売されるたびに握手などの接触イベントがある。彼らが夢を叶えるためにはCDが売れなくてはいけないし、もっと話題になって世間に認知されなければいけない。その欲と「もっと会いたい」という思いが重なって、気がつけばカードの請求額はどんどん膨らんだ。

 

今は彼らも人気が出て、接触イベントの頻度が減り、スタイルが変わり、私は以前よりは彼らと距離を取れている。それがいいことなのかよくないことなのかはわからない。

 

振り返ってみると、この4年間はものすごく楽しかったけれど、自分が自分じゃないような感覚も少しだけあった。澄香の行動を見ていると、そのときの自分が嫌でも思い起こされる。自分が冷静ではなかったことを客観視する時間は、胸がじわじわと冷たいものに侵食されるような感じがして痛むのだ。

 

◆広い視野から狭い視野へシフトチェンジする行動

 

澄香はもともと、“広い視野”をほぼ強制される環境にいた。直接的には自分に関係のないことでも深く広く考え、生活の隣に置く必要があった。例えば環境問題や、どこか他の国で起こっていることについてだ。もちろんそれは生活に何も関係ないとは言えないし、ひとりひとりが意識することで良い方向に変わることもあると思う。しかし、広い視野でばかり24時間365日生きているのは、正直疲れる。

 

この本を読むまでは、私も視野は広ければ広いほどいいことだと思っていた。視野が広ければいろんな人が抱えている問題に気づけるし、世界の解像度が上がる。視野を広げるために読書をしている面もある。しかし、この本には“広い視野”と“狭い視野”、それぞれの危険性も描かれている。

 

広い視野は世界を知る意味で大切なことだが、ときに息苦しくもある。見えすぎることで傷つくこともあり、生きづらくなることもある。例えば「世界にはもっと苦しい思いをしている人がいる。私なんて幸せな方だ」と考えて、本当は限界が来ているのに我慢をしてしまう、といったようなことだ。限界は人によって違うし、環境だってひとりひとり違うはずなのに。

 

澄香は広い視野から狭い視野にシフトチェンジすることで心が救われている。道哉に出会い、道哉のファンに出会い、自分の居場所ができた。自分にとって柔らかで甘ったるい世界で生きることや、狭い世界で強く信じるものがあることはときに大切で、自分を強くしてくれる。何かを信じるという力は、とてつもなく強いエネルギーになる。

 

自分的に辛い環境で生きている澄香にとって、視野を狭めることは世界を圧縮することで、心を守る鎧でもあった。ただ、狭い視野はもちろん危険も孕んでいる。狭すぎて周りが見えないことで、周りを傷つけてしまうこともあるし、澄香や過去の私のように自分をすり減らしてしまうこともある。

 

一番いいのは、物事に応じて視野の広さを切り替えられることだと思うが、人間はそんなにうまくできていない。特に視野が狭くなっている人間は、その世界に夢中になる。狭い世界は中毒性のある麻薬のようなものかもしれない。そこから抜け出すのは勇気もきっかけも必要だ。

 

◆誰かの“くだらない”も誰かの“信じる”

 

この物語では、三人それぞれの“信じるもの”が描かれる。誰かにとってはくだらなく馬鹿げたことでも、他の誰かにとっては人生をかけるほど大切なことがある。三人は信じるものの存在によって孤独から逃れ、逆に信じるものの存在で孤独にもなる。

 

ラストには慶彦がある答えにたどり着くのだが、私はそれをどうしても正解の答えだと思えない。しかしこれは、読者の経験によっても意見が分かれるところだと思う。物語も、受け取り手によってその感想ががらりと変わる。この読書で経験した、ぞわっとするような恥ずかしいような感覚は、おそらくずっと私の心に残り続けるだろう。

 

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太宰治『女生徒』感想|少女の自由な思考が見せてくれる“日常の物語”

太宰治の文学を読めば読むほど、太宰治という人間がわからない。ただ、人間を観察する力と時代を読む力が凄まじいことだけはわかる。絶望に打ちひしがれるような気持ちになったり、5月の風を浴びたときのようにさわやかな気分になったり、夏が終わり秋の風を感じたときのように寂しくなったり、太宰治が紡ぐ文章は、幸福も絶望も味あわせてくれる。

 

86年前、一人の少女の一日の心の動きを丁寧に描いた小説が発表された。太宰治の『女生徒』は、思考の自由さと感情の豊かさ、思春期特有の揺れを、丁寧に描いた作品だ。

 

 

◆ある少女の一日を描いた物語『女生徒』/太宰治

 

この物語は、少女が朝目を覚ましたところから始まる。その後は、ただただ少女の一日が少女目線で描かれる。電車に乗って人間観察をし、自分ではどうしようもできない社会や本能で進んでいく人生に絶望したかと思えば、電車を降りるとそんなことはさっぱり忘れる。母親のことは嫌いじゃないけど、なんとなくムカつく。でも本当は大切にしたい。早くに死んでしまったお父さんが恋しい、嫁に行ってしまった姉にもう甘えられなくて寂しい。心は子どもなのに身体だけ成長して、大人になるのが怖い。私はこれからどうなるんだろう、何かになれるのだろうか。

 

そんなことがつらつらと書かれているのだ。物語としては何も起きていないように見える。少女が一日の中で頭の中で考えていることが文章になっている。つまり太宰治は、少女を取り巻く「出来事」ではなく「思考」を書いたのだ。

 

よく、誰かの日記を盗み見している気分になる小説がある。しかし本作は日記どころか、頭の中そのものを覗いたような気持ちになる作品だ。

 

◆自由な思考を取り戻す

 

とにかく主人公の少女は、頭の中で考え事ばかりしている。その考えは定まっておらず、いろんなところへ飛んでいく。周りの人を見てマイナスな気持ちになっていたかと思えば、自然に触れるとその気持ちはすぐにプラスに変わる。一貫性なんてまるでなくて、彼女の頭の中はなんて自由なのだろうと思う。

 

そもそも人間の思考は自由なものだ。大人になればなるほど経験が邪魔をしてその思考は凝り固まる。やってみたいことを思いついても「そんなバカなことできるわけない」と自分で自分を否定してしまうこともあるだろう。大人になると、思考も臆病になってしまう。

 

この少女の思考は、どこまでも自由だ。自由で瑞々しくて、たとえそれがマイナスの考えだとしてもキラキラと輝いて見える。読み手からすると彼女の一日に特別なことは起こっていない。

 

しかしこの少女の中では、朝起きたときの自分の顔を嫌だと思い、父のことを恋しく思い、母のことをやっぱり大切にしようと思い、大人になることが怖いと思う。さまざまなことが頭の中を駆け巡っている。少女の中では立派な物語ができている。他の誰でもない“自分”という物語だ。

 

彼女のように自由な思考を取り戻すことは、一歩踏み出す勇気をくれる。どんなにすごい技術でも、まずは「発想」がなければそれは生まれない。何かを成し遂げている人には遊び心があって、突拍子もないことを思いつくという柔軟な思考がある。AIが私たちの生活の一部になることを想像した人がいるから今があるのだ。

 

◆日常こそ物語

 

本作は1939年雑誌『文學界』で発表された。まさに戦時中、日本が日中戦争を拡大し、第二次世界大戦へと向かう時期で、明るいとはいえない時代だろう。新聞やラジオの力もあり、戦時色が濃い社会で、国家的な一体感が求められた時代だ。言論統制も非常に厳しく行われてきた。

 

その時代にここまで細やかな、読者からすれば「何も起きない」小説を描いた太宰。物語は人を救うことがある。混沌とした時代に何も起きない、少女の自由な思考を描いたこの物語は、どれだけ人の心を掴んだだろうか。『女生徒』は、日本が戦争に向かう言論統制下において時代の流れから少し距離を置いた稀有な小説でもある。たった一人の少女の、たった一日。物語は一日に圧縮されているのに、その物語から広がる思考は限りなく自由で広い。

 

私たちは時代を「時代」として捉えてしまう。その大きな渦の中にも、必ず人がいて、ひとりひとりの人生があった。『女生徒』という作品は、一人の人間のたった一日でも、そこに物語があることを教えてくれる。歴史の教科書に載るのは節目となる大きな出来事でも、その時代を生きた人々には毎日感情の揺れがあり、日常があり、温度がある。

 

私の一日も、あなたの一日も、朝からの出来事や考えたことを書き出してみると、きっと多くのことをしているし考えているはずだ。誰の人生だって、物語の一部。『女生徒』は、なにげない日常の価値や自由な発想の価値を再発見させてくれる一冊だ。思春期を遠く離れた読者にも、その時期特有の瑞々しい感性を思い出させる力がある。

 

 

女生徒

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