私たちは、信じることや愛について、深く考えがちだ。この人のことは信じていいのだろうか、この愛は本物なのだろうか。SNS社会で、あらゆる人の気持ちを簡単に目にすることができるようになり、よりそう思ってしまうのかもしれない。でもきっと、信じることや愛は、もっとシンプルなことなのだ。この人と一緒に生きていきたい、この人を守りたい。そんな、心の底から湧き出るシンプルな気持ちだ。
■宗教二世をテーマにしたセンセーショナルな物語

湊かなえさんの『暁星』は、文部科学大臣で文壇の大御所作家でもある清水義之が式典中に男に刺されて死亡するところから始まる。逮捕された永瀬は、週刊誌に手記を発表。そこには、清水が深く関わっていた新興宗教へ対する恨みが綴られていた。その一方で、式典に参加していた作家は、永瀬の事件を小説として執筆。ノンフィクションとフィクションが交わる結末とは。
この始まりを読んで、ある事件が頭をよぎった。安倍晋三元首相の銃撃事件だ。私が本作を読み始めたとき、ちょうど山上徹也被告の裁判のニュースが報道されていた。
その事件のことも頭にあったため、式典で清水が殺される始まりはとてもセンセーショナルだった。実際にあった事件をモデルにした物語はよく目にするが、私がそれらを読むとき、その事件は既に昔のものだった。こんなにもリアルタイムで、実際の事件を彷彿とさせる物語を読んだのは初めてだった。
もちろん本作は創作で、実際の事件とは関係がない。大前提として、人の命を奪うことは決してしてはいけない。それがわかっているからこそ、何度も胸が潰されそうになった。
■「信じる」前の「救われたい」という気持ちの切実さ
私は、所謂「宗教」や「信仰」をテーマにした物語にとても興味がある。そのものに興味があるというよりも、「人が何かを信じる気持ち」に興味があるのだと思う。永瀬の母は、永瀬が幼い頃からある集まりに顔を出していた。しかしそれは、必ずしも宗教とわかっているわけではなく、最初は「救ってほしい」という気持ちから参加しているものだった。
宗教というと身構えてしまうが、何かを信じる心はおそらく誰でも持っている。例えば、推しのことを信じている人もいるだろう。「彼・彼女はこういう人だからこんな行動はしない」「彼・彼女はさすがファンの気持ちをわかっている」。こう考える部分がある反面、自分が信じているものと違う一面が見てると「裏切られた気分」になってしまうこともある。その気持ち自体が悪いわけではない。しかし、信じている世界が崩れていく絶望感のようなものは、実はあらゆる場面で感じることがある。
事態が良くなると思って信じたこと。お金を払ったこと。息子・娘にそう言い聞かせたこと。親からするとすべて「良くなると思って」した行動でも、子どもにとってはそうではない。今村夏子さんの『星の子』も宗教二世の話だが、親と子どもは血縁関係があるといっても別の人間で、何を信じるかは個人が決めるものだ。
外から見ている私たちはどこか屈折している出来事に気づくことが出来るけれど、渦中にいるとそのことに気づけない。たとえ違和感を覚えたとしても、家族の「当たり前」から抜け出すことは、とても困難なことなのだろう。「何を信じるかは個人が決めるもの」と書いたが、これは自由と安全がある場所で成立するものだ。だからこそ、それが叶わない瞬間が多くある本作は、胸がきゅっとなる部分が多くあった。
それでも、本作は決して絶望の話ではないのだ。本作では「夜明け前が一番暗い。だが必ず日は昇る」というメッセージが何度も登場する。
自分が信じるもの、愛するものは、自分で決めなくてはいけない。自分の目で見て、耳で聞いて、心で感じて、自分で決定をしなければいけない。物語の中盤まで、永瀬はなんて不幸な人生なのだろうと思っていた。しかし、それは物語が進むにつれて、「本当にそうだったのか?」という疑問に変わり、最後にはある確信にたどり着いた。絶望は、誰かとの出会いで希望に変わることがある。
どんなに絶望に打ちひしがれても、自分が誰かと出会うことで感じたもの、ひとりで考える時間で得たものは、自分だけのものだ。そしてそれが、誰にも影響されない自分だけの光になり、星になる。誰かを愛し、信じる自分の心を、もっと信用してみたくなった。
※更新が空いてしまい申し訳ありません!!noteでもちょくちょく更新しているので、もしご興味があれば遊びに来ていただけるとうれしいです!





