本と映画と、少し寄り道

小説と映画の感想文をゆるゆると。

【読書感想】綿矢りさ『嫌いなら呼ぶなよ』|“明るすぎる闇”をまとう私たち

綿矢りささんの小説はどうしてこんなにも胸がドキドキするのだろう。軽快でキレキレの文章の中に潜む毒と皮肉、そしてあっけらかんとした感情。そのすべてがいつも“ベストマッチ”だ。今回読んだ『嫌いなら呼ぶなよ』は、公式ホームページによると「明るすぎる闇」に迫る短編集。整形を繰り返す女性や不倫を繰り返す男性、YouTuberのオタク、作家とライターの間で揺れる編集者が主人公だ。この物語は、“そこらへんにいる人”が主人公。スカッとする話ばかりではないが、あまりにも主人公たちの胸の中を映し出しているこの物語は、単純におもしろくて気持ちがいい。まるでジェットコースターに乗ったような読後感だ。

 

 

◆整形を繰り返す女性の“明るすぎる闇”

 

この4篇に共通しているのは「コロナ禍」であるということ。コロナ禍を描いた小説は何冊か読んできたが、その中でも一番明るい作品だった。しかし、ただ明るいだけではなく、主人公たちにはどこかしら危ういところがある。それは性格だったり行動だったり言動だったりさまざまだが、何かがおかしい。まさしく「明るい闇」という表現がぴったりだ。今回はその中でも印象的だった作品『眼帯のミニーマウス』を紹介したい。

 

プチ整形を繰り返す女性・りなが主人公の『眼帯のミニーマウス』は、「自分が良いと思えば他人からの目は関係ない」という明るさと、「理想の自分になりたい」というある種の闇が描かれている。10年も前であれば、整形はひそひそと噂話をされるようなものだった。「あの芸能人整形らしい」とか「あの鼻、いかにも整形鼻」とか、どちらかというと「整形=悪」というように話されていた時代。しかし現在は、整形が当たり前のことのように世間に受け入れられている。「整形=善」とはなっていないと思うが、芸能人でも整形を公表している人がいたり、SNSではおすすめのクリニックや整形方法などを呟いている人をすぐに見つけられる。

 

そんな時代に生きるりなは、昔からかわいいものが好きだった。母親が作ったフリフリのドレスを着ていたが、誘拐されそうになったことがきっかけで家族からかわいらしい服を着ることを反対され、地味な服を着るようになる。高校生で原宿に出会って好きな服を着るようになり、大学ではインスタグラムを開設し、初めての整形をする。社会人になってもりなの心はかわいいものにとらわれたままだ。

 

りなは“自分モテ”を狙っていて、「自分が気に入るのが一番」と信条を掲げている。あるとき、りなの軽い一言をきっかけに会社でりなは整形しているという噂が広まる。誰に何を言われても自分のモットーを曲げなかったりなだが、最後に気づく。マスクやダウンタイムのときの包帯姿が一番心地いいことに。顔中に包帯をしていると、とにかく目立つ。目立ちはするが、いじってくる人はおらず、おそらく“無敵”の自分になれる。

 

◆自分の理想を追いかけ続ける苦しさと鎧

 

コロナ禍のときには「マスク美人」という言葉も流行した。私もおそらくは「マスク美人」の方で、マスクを取るとがっかりされることが多い。自分でも鏡を見ていて思う。顔面上部と下部が、なんだかマッチしないのだ。なんとなく合わないパズルのピースのように見える。私たちはきっと「この上部だったらこの下部だろう」というふうに、勝手に顔のパーツや身体をマッチングさせている。だからこそ理想を抱き、理想を追いかけてしまう。

 

「ありのままの自分が一番好き」と心から思える人は世界にどのくらいいるのだろう。りなの整形は、ある種の“鎧”だった。自分を守るための、自分を表現するための、鎧。だから自分の好きな見た目に近づけて、ダイエットもして、努力をする。自分が好きな自分でいるために。それは現代のSNSにも通じるものがある。キラキラした部分を切り取って、充実している自分を見せる、鎧。誰もが自分の理想とする自分でいたいのだ、例えそれが小さな画面の中だけだったとしても。

 

りなが最後に気づいた「包帯姿が心地いい」という考えは、パラドックスだ。包帯で顔をぐるぐる巻きに隠してしまえば、目立つし、隠れているからアップデートしなくて済む。皮肉なことに、顔を隠すことで強くなれるのだ。「こうなりたい」という願望は、生きている限り際限がない。

 

こう書いていると暗いグロテスクな話のように感じるが、決してそうではない。綿矢さんの書く文章は軽快で、りな自身も基本は明るい。私が思う綿矢さんの物語の魅力は「主人公に嘘がないこと」だ。主人公が何を考えているかわからない、ということはほぼない。それは主人公が私たちに感情をすべて見せてくれるから。共感することができなかったとしても、主人公の気持ちをリアルタイムで感じることができる。

 

綿矢さんの描く「明るすぎる闇」は、思ったよりも心を抉る。この4篇の主人公たちは私であり、友人であり、家族でもある。誰もがきっと、どこかに闇を抱えている。誰かに「この人おかしい」と思われている部分だってきっとある。人が抱えている小さな闇をきめ細やかに言語化したような味わいの物語だった。

 

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推し活のリアルを描くおすすめ5冊|キラキラだけじゃない「推す」ことの物語

自分に大切な推しがいるからか、「アイドル」を題材にした話にとても弱い。2025年、世間は空前の推し活ブームだ。過去には「キモい」と揶揄されていた「オタク」は変化を遂げ、いつの間にか「推し活」がキラキラとしたムーブになっている。しかし、その状況に少なからず居心地の悪さを感じている人もいるのではないだろうか。まさしく私がそうだ。

 

「推す」とは、そんなにキラキラしたものではない。

 

文字にすると本末転倒、という感じだが、推しに会うために自分にかけるお金を削って、4,000円のファンデーションを買うことも悩み、疲労困憊でも仕事をガンガン入れる。

 

その最中に何度も「もうやめようかな…」と思うターンが来る。しかし、推しに会えばすべてが吹っ飛ぶ。生産性があるようでまったくない。でも仕方ない。好きなんだから。そんな綱渡りの状態をもう何年続けてきただろう。虚しさとうれしさを繰り返しながら生きている私たちと、ただただ楽しい活動を「推し活」という言葉でまとめられるのは何かが違う。

 

今回の記事ではそんなモヤモヤを抱えながらもおすすめしたい「アイドル」をテーマにした5冊を紹介する。推すことは楽しいだけじゃない。そんなヒリヒリした痛みと、少しの救いが描かれている本たちだ。

 

◆『愛じゃないならこれは何』/斜線堂有紀

 

 

恋愛をテーマにした6篇の短編集で、その中の『ミニカーだって一生推してろ』は28歳の地下アイドルが主役の物語。地下アイドルの赤羽瑠璃は、いつからかある一人のファンのアカウントをチェックするようになる。ファンは純粋に瑠璃のことを推し、瑠璃はそんなファンの好意を受け取って励みにしていた。アイドルとファンは、あまりにも際どい線引きの中で生きている。どちらかが壊れればその関係性は終わってしまう。そんなことを突きつけられた物語だった。

 

もちろん他の話も切り口が斬新でおもしろい。痛くて苦しいのにもっと読みたい、片思いのような読書体験ができる本。

 

◆『アイドルだった君へ』/小林早代子

 

 

すべてに「アイドル」が関連している5篇の短編集。その中でも『寄る辺なくはない私たちの日常にアイドルがあるということ』は、まさしくアイドルを推しているファン目線の話で共感が持てる。最初に書いたように、アイドルを推す、と一言で言っても、そのスタンスはひとりひとり違うものだ。その核の部分というか、オタク同士の精神論のようなものが描かれている話で、本気でアイドルを推したことがある人は胸が潰されるような気持ちになると思う。

 

アイドルとファンの関係性や儚さを実感して、心がしくしくするような物語。それでも読むのがやめられないのは、この物語の主人公たちの思いにやっぱり共感してしまうからだ。

 

◆『スターゲイザー』/佐原ひかり

 

 

打って変わってアイドル目線のさわやかな青春物語!自分はアイドルではないのにものすごく“リアル”を感じてしまい、今の推しどころか今までの推しすべての顔が頭に浮かんだ。おそらく、がんばっていない人はいないし、悩んでいない人はいない。推しと出会えたことがどれだけの奇跡なんだと考え、今まで以上に推しを大切にしたいと思う物語だ。この物語はどちらかというと“陽”の感情が生まれる。デビューを目指す登場人物たちが生き生きとしていて、彼らが歌って踊るステージを実際に見てみたいとまで思う。続編を強く希望してしまう物語。

 

番外編

 

◆『コンビニエンス・ラブ』/吉川トリコ

 

 

あらすじでさえネタバレになりそうで何も書けないので番外編として紹介。とにかく楽しい恋愛小説。最後に「おぉ…」と声が漏れてしまう展開が待っていて、違和感を持ち続けながら読む読書体験がものすごくおもしろかった。かなり薄い本で一気に読めるので、なんとなく息抜きしたいときに読むのがおすすめ。“恋愛消費小説”というキャッチフレーズがついていて、まさしくぴったり。

 

◆『ファンになる。きみへの愛にリボンをつける。』/最果タヒ

 

 

最果タヒさんが、自身の推しへの気持ちをつづったエッセイ。ものすごく素敵で長い、人が書いたラブレターを読んでいるような気持ちになるエッセイで、誰かを深く好きになった人には必ず響く。読んでいると共感しすぎてヒリヒリしてしまい、かなりゆっくりと読んだ。装丁も素敵で内容も素晴らしかったので、本棚の目立つ場所に飾っているほどお気に入りのエッセイ。キラキラした部分だけではなく、推す上の葛藤も素直につづっていて、「わかる…」とうなりながら読んだ。



『アイドル』テーマの小説は今や数多くあるが、その本を読むたびに思うことがある。『アイドル』は、もちろん現実を生きているが、存在そのものがまるで物語のようだ。『ファン』はその物語の登場人物のひとりで、その物語には膨大な登場人物がいて思いがある。だからこそ私は、彼らの物語に期待してしまうし、どんなにモブキャラでもその物語の登場人物でい続けたくなってしまうのだ。

 

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【実写化】早見和真『ザ・ロイヤルファミリー』感想 競馬を知らなくても夢中になれる“大人の青春”

早見和真さんの小説は、いつも私を知らない世界に連れて行ってくれる。死刑を宣告された女性を巡る物語『イノセント・デイズ』での出会いをきっかけに、随分といろいろな世界を見させてもらったと思う。そのどれもが強烈に胸に残っているが、『ザ・ロイヤルファミリー』は、私に“大人の青春”を見せてくれた。馬主と彼を取り巻く人々、そして馬。この物語には、抱えることができないほどの夢とロマンが詰まっている。

 

 

◆『ザ・ロイヤルファミリー』早見和真 競馬を知らなくても夢中になれる理由

 

この物語の語り手は、ひょんなことから人材派遣会社の社長の秘書となった栗須栄治。社長・山王耕造は競馬に熱中している馬主だった。彼らは、自分たちが出会った運命的な馬たちの勝利を求め、有馬記念を目指す。

 

実はこの物語、何度か本屋で手に取って購入することをやめている。あらすじを読んで「競馬の話かぁ」と思い、競馬に興味もなければ知識もない私には難しい話だろうと思っていた。そんなとき、日曜劇場で実写化するというニュースが飛び込んできた。実写化が決まってからというものの、本屋に行くと今まで以上にこの本と目が合う。ここまで気になるなら読んでみよう、と自分の直感を信じて、読んでみることにした。

 

本作は1部と2部で構成されており、1部は栗須と山王、そして「ロイヤルホープという馬の話がメインで繰り広げられる。競馬知識ゼロで読んでいたため、もちろん多少わからない部分はあったが、わからなくてもストーリーはわかるし、熱さも伝わる。このあたりは実写で補完しようとも思いながら読んでいくと、どんどんのめり込んでいった。

 

◆“人間らしさ”にあふれる登場人物の魅力

 

物語に夢中になれるかどうかは、その登場人物にかかっていると思う傾向がある。好き嫌いの話ではなく、彼らの行動や気持ちに納得できるものがあるか、納得できなくても惹かれるものがあるか。彼らになんらかの感情を抱くことができるか。

 

この物語の登場人物は、すべてが愛しい。ワンマンで我儘な山王社長は、秘書・栗須の視点で語られることによって愛しく思えるし、人だけではなく馬まで愛しい。実写で見ているわけでもないのに、その愛くるしさが栗須の視点を通して伝わってくる。また、本作は栗須目線の「ですます調」で書かれている。秘書という立場もあり、栗須は基本的に冷静なため、栗須目線でもどこか客観的に物語を理解することができる。たまに栗須が感情的になるときは、よっぽどのことが起こっているわけで、その場面は心が震える。

 

1部では山王社長の家族の秘密も描かれるが、1部の終盤では涙を堪えるのに苦労した。電車で読んでいることが多かったため、目を見開いて瞬きをなるべくしないように読んでいた。周りから見ると怖い顔だっただろうと思う。そして全体の半分の1部を読み終わった頃には、競馬のロマンと夢を感じ、何よりもその背後にいる人々や馬たちへの敬意が湧いた。競馬というと「ギャンブル」という言葉が浮かぶ人も少なくないだろう。私もその一人だった。しかし、すべての物事の後ろには人がいて、愛情がある。知識がないだけでその気持ちを想像できなかったのは、反省すべき点だと感じた。

 

◆受け継がれる「血」が物語に深みを与える

 

本作は、人間と競走馬の20年にわたる壮大な物語として描かれており、「継承」というテーマもある。2部では「継承」の面が深く描かれる。2部の主役はなんといっても山王の息子・耕一と、ロイヤルホープの息子・ロイヤルファミリー。耕一はある制度を使って馬主となるが、耕一とロイヤルファミリーはとてつもなく重いものを背負っている。それは“血”だ。馬の世界で「血」は重要なものであり、その重さを馬主にも背負わせている2部は、読みながら心臓がずっとバクバクしていた。ここは物語の肝で、クライマックスでもあるので、彼らの未来をぜひ自分の目で確かめてほしい。

 

ラストシーン、そしてラストページの美しさといったらない。ここまで美しいラストシーンに出会えることは、稀だと感じるほどだった。少し大げさに聞こえるかもしれないが、本心でそう思う。この物語は2025年の私のベスト本に入るだろう。

 

1部を読み終わった頃から、私は競馬に興味を持ち、Xで情報収集をするようになった。そんな折に、Xのトレンドに「ハルウララ」という言葉を見つけた。本作を読んでいたということもあり、きっと馬の名前だと感じてクリックしてみると、かつて「負け組の星」として人気を博した競走馬「ハルウララ」が29歳で永眠したというニュースだった。

 

正直くわしくは知らなかったが、彼女を悼む声を読んでいるだけで胸に迫るものがあった。彼女は引退するまで一度も勝つことができなかったが、負けても負けても走り続ける姿が話題となり、アイドル化したのだという。このタイミングで出会ったそのニュースに、私はどこか運命的なものを感じてしまった。この物語に出会っていなければ、気にもとめないニュースだった。

 

◆人生を豊かにする「物語」の力

 

本作では、馬に対する愛情はもちろん、栗須や耕一が罪悪感やエゴに悩む気持ちも描かれている。故障した馬がどうなるか、結果を出せずに引退した馬がどうなるか。競馬が虐待だという意見があることもこの物語をきっかけに知り、深く考えるきっかけにもなった。

 

このようなことに直面するたびに、世の中は自分が思っているよりも知らないことばかりだと強く思う。人生には限りがある。頭に描いたことをすべて経験するのは難しいし、この世の中にある知識をすべて手に入れるなんて到底できない。だからこそ、私にとっての物語の世界は大切で、強い。知らない世界を経験させてくれる物語に出会うと、心が動く。この物語では、大人の青春を存分に経験させてもらった。

 

そんな本作は2025年10月期の日曜劇場で実写化する。栗須を妻夫木聡、山王社長を佐藤浩市が演じるが、原作を読んでからキャストを見て心の中でガッツポーズをした。そして演出は塚原あゆ子というではないか。先日発表された目黒蓮の役柄はまだ明かされていないが、絶対にこの人だと思う人がいる。絶対にハマり役だと確信してしまい、なぜだか少し悔しい気持ちにもなった。頭で描いていた世界が、おそらく完璧に近い形で実写化されると思ったからだ。

 

物語を通して、映像を通して、私は違う世界を経験する。大人の青春を映像でもう一度味わえるなんて、今からワクワクが止まらない。

夏目漱石『こころ』感想とあらすじ|先生の遺書に描かれた恋と後悔

1914年に書かれた夏目漱石の『こころ』。私がこの物語に触れたのは、高校生の頃だ。国語の教科書に載っていて、記憶には残っているものの、それほど心に響く物語だとは思わなかった。しかし、改めて全編読んでみるとどうだろう。今から約111年前に書かれた物語なのに、どこか共感する部分がある。人間は「恋」という大きな魔物を目の前にすると、自分の黒い部分がむき出しになってしまう。それは現在でも過去でも変わらないことだ。

 

◆『こころ』の前半と後半の違い|物語が加速する先生の遺書

 

 

『こころ』といえば、『先生の遺書』があまりにも有名だ。国語の教科書にもその部分が掲載されていたが、実はこの物語は先生の他にもうひとり注目すべき人物がいる。前半はその人物・『私』の目線で語られ、物語は『私』と『先生』の出会いから始まる。二人は海で出会い、『私』は『先生』のことが気になって仕方なくなる。二人の出会いのシーンは、夏や海の表現も手伝ってかなりさわやかで、これからキラキラの青春物語が始まるのでは…と楽しい期待をしてしまうくらいだ。

 

序盤はかなりゆっくり展開していくため、前半で読むのをあきらめてしまう人も多いかもしれない。しかし、前半さえ乗り切って中盤に差し掛かると、物語が一気に進む。それは非常にセンセーショナルだ。故郷に帰っていた『私』の父が危篤になったとき、先生から『私』のもとに手紙が届く。そのタイミングで!?とこちらも驚くが、それは先生の遺書だった。『私』は、父親にどうか持ってくれと願いながら汽車に飛び乗り、先生の元へ急ぐ。

 

そして後半は、『私』が出てくることはなく、すべて先生の遺書だ。そこには先生の過去と後悔が長く長くつづられていた。前半で私たち読み手は、先生のことが何もわからない。『私』と親交を深めているのに、どこかミステリアスで、全然心の核心に触れられない。絶対に何か秘密を隠しているのに、それが全然暴かれない。

 

それは私達が『私』を通して先生を見ているからだ。これは夏目漱石が仕掛けた大きな仕掛けともいえよう。前半の物語の進みの遅さはここで効果を発揮する。『私』の父の命が危うくなる中盤から先生の遺書が届くことをきっかけに、物語は一気に加速する。この緩急をつけた構造が『こころ』の魅力のひとつでもある。

 

◆先生の遺書に描かれる恋と後悔|人間の本質は変わらない

 

『先生の遺書』には、恋と友情に揺れる先生の過去が書かれていた。先生は下宿先のお嬢さんに恋をしていた。お嬢さんの母親とも関係は良好で、三人の暮らしは穏やかで幸せそうだった。しかしそこで先生は自分の親友・Kを下宿先に連れてくる。自分のライバルになるかもしれない第三者を招く意味はなんなのだろう、と正直思ったのだが、それは先生がKを信じていたというか、過信していたからだ。Kは恋なんてするはずがない、と。しかし、先生の予想は大きく外れ、Kもお嬢さんに恋をしてしまう。しかも、先生がKにお嬢さんへの気持ちを明かす前に、先生はKの気持ちを聞いてしまった。

 

ここで先生がした行動は、読んでいても胸がざわざわした。先生の行動を疑問に思ってしまうのは、私が当事者ではなく、冷静にこの物語を読んでいるからだ。恋を目の前にすると、しかもそれが欲しくてたまらない恋だと、人の理性は簡単に吹っ飛ぶ。恋はあまりに情熱的で、時に理屈や常識を上回ってしまう。その経験は、恋をしたことがある人なら多かれ少なかれあるものだろう。先生は自分の行動により、長い間後悔に苛まれることになる。黒い影をどこかに背負いながら生きていくことになる。

 

心に刻まれた傷や後悔は、時間が解決してくれることはあっても、綺麗に消えるものではない。その衝撃が大きければ大きいほど、心に深く刻まれ、トラウマレベルの出来事になる。先生の遺書を読んでいると、ただただ延々と後悔をつづっている印象もあるのだが、そうやって吐き出さないといけない、自分のしてきた一挙一動を、感じたすべてを、その後悔を伝えなければならないという熱量を感じた。

 

ラストでぞっとしたのは、その後の『私』の心情がまったく描かれていないことだ。この重たすぎる遺書を受け取って、『私』はどう感じたのだろう。遺された先生の妻を見て、どう思うのだろう。先生の遺書のターンが終わって物語が幕を閉じると、再び物語が『読み手』目線に映る。やはり『読み手』は『私』なのだ。夏目漱石の作った、心にずん、と響く読後感に、ただただ圧倒されてしまう。

 

約111年前に描かれた、恋を目の前にした人間の愚かさと、無力さ。時代や文化は現在とまるで違うが、人間の『こころ』の本質は変わらないのだと痛感する。夏目漱石太宰治、過去の文豪たちが残してくれた文章たちは、陰鬱なものも多いが、「この気持ちは私だけが抱えているのではない」と慰めてくれるものでもある。何年も前の物語でも、いつでも私たちの心の近くにいてくれるのだ。

 

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佐原ひかり『人間みたいに生きている』感想|食の価値観が揺さぶる物語

「口は穴だ。顔に空いた穴」ーーインパクトの強い言葉から始まる佐原ひかりの『人間みたいに生きている』。食べることは人間の体を作り、健やかな心を作り、人生を豊かにする。世間で当たり前のように言われているこの考えは、なんらかの事情で食べることができない人にとっては苦痛でしかない。本作を通じて私は自分の世界の狭さを知った。

 

◆「同じ」「わかる」の傲慢さ 『人間みたいに生きている』/佐原ひかり

 

 

高校生の唯は、食べることが苦手だ。苦手というよりも、食べるという行為自体に不快感を持っている。そんな唯が知り合ったのは、ある館に住んでいて吸血鬼だと噂されていた泉という男性。泉はものを食べることができず、そんな泉に唯は初めて自分のことを打ち明ける。唯は泉の館に通うようになり、そこではリラックスをして生きることができた。唯は両親にも、友達にも自分の食についての悩みを話せなかった。

 

唯は最初から終盤まで、泉のことを「自分と似た悩みを持つ人」だと捉えていた。だからこそ悩みを打ち明けられたし、泉と過ごす時間が心地良かった。しかし当たり前だが、人はひとりひとり違う生き物だ。唯はあらゆる経験を通して、そのことに気づいていく。唯を見ていて、私は自分のある口癖に気づいた。それは「わかる」という言葉だ。

 

もちろん「わかる」と思っているからそう言っている。わからないことには言わないし、嘘をついているわけではない。「わかる」と言うことが悪いわけではなく、共感が話の流れをスムーズにしてくれることも、人を救うこともあると思っている。しかし、いくらその人と自分の境遇や経験が似ていても、結局は「他人」だ。それを簡単に「同じ」とカテゴライズすることは極めて危険で、傲慢だ。

 

私はあらゆる場面で言ってきた自分の「わかる」という言葉を思い返した。あのとき、言われた人たちはどんな気持ちだったのだろう。「わかるわけない」とか「違うよ」という言葉が返ってきた覚えはないけど、人は知らないうちに、息をするように誰かを傷つけてしまうことがある。

 

一方で、人には多面性がある。中盤で唯は学校の友達の意外な一面や、自己評価と人からの評価が違うことに気づく。私たちは自然に何かを演じている。職場で、友達の前で、恋人の前で、見せる顔が違う。どれかひとつの一面を見たからといって、その人をわかっているわけではない。人は万華鏡のように多面的な生き物だ。「裏表がない」という言葉があるが、人間は裏表どころか、数え切れないほどの顔がある。裏表がない人間なんて、本来存在しないのだ。

 

◆食の価値観の重要性

 

本作を読んでいて、「食の価値観」は人間関係を築く上でかなり重要な働きをしていることを改めて実感した。私は家族と親友とする食事が好きだ。その他の人であれば、正直ひとりの方が気が楽だと思っている。大声で言えることではないが、私はよく食事を残す。これは世間的に見れば悪いことだとわかっていても、どうしても食べられない。少食というわけではないが、外食だと特に全部食べられない。ビュッフェスタイルの外食だったら誰とでも楽しく食べられる。自分の裁量で量を決めることができるからだ。

 

幼稚園の頃から給食が苦手だった。特に幼稚園のときは、どこまで食べたかを先生に見せなければいけなかった。先生に「もう少し食べよう」と何回言われたかわからない。小学校のときは誰に許可を取るわけでもなかったが、班に分かれて食べて、食器を班のメンバーがまとめて返すので、残すと食器係の子に嫌な顔をされた。それが嫌で嫌で仕方なく、給食の時間は保健室で食べていたこともある。

 

大人になった今は自由に食べることができるが、奢られることと、絶対に残さないと心に誓っている人と食事をすることがすごく苦手だ。誰かにごちそうされた場合、残すのは失礼にあたる。誰かに奢られる予定があると、それだけで食欲がなくなってしまう。

 

「人と食事をするのは楽しいこと」「食べることは心まで豊かにすること」。そんな当たり前の考えが、人を傷つけることもある。自分の中の当たり前が、誰かにとっては苦痛なこともある。他者を認めようとは言わないし、この本でも言っていない。しかし、自分と他人は違うということを頭の真ん中に置いておけば、もう少し肩の力を抜いて生きることができるのかもしれない。

 

◆ややこしい世界でさえ愛したくなる物語

 

佐原ひかりの物語は、どちらかというとさわやかで明るいイメージの物語が多かった。今作は表現も若干グロテスクなところがあり、明るい話ではない。それでも、佐原ひかりの本に共通しているのは「読後に前を向けること」だ。背中をどん、と押してくれるのではなく、隣にそっと寄り添ってくれるような作品の優しさが心に広がる。

 

「世界のややこしさに、めまいを起こしそうになる」という一文がある。そう、世界はややこしいのだ。人と同じかと思えば違うし、見ているその人がすべてではない。世界は、人間は、なんてややこしいんだろう。そのややこしい人間たちが混ざり合って生きている。そこには優しさも喜びも悲しみも憎しみも生まれる、生まれてしまう。でもきっと、ややこしい世界だからこそ、人は人と生きている。佐原ひかりの本を読むと私はいつも、そのややこしさでさえ認めて、愛したくなってしまうのだ。

村山由佳『PRIZE』感想|承認欲求は本当に悪いこと?

この本は化け物だ。人生でそう何回もない、すごい出会いをしてしまった。途中から鳥肌が止まらず、最後には自然に涙が浮かんだ。それほどまでに、本全体の力強いパワーと圧力に圧倒された。読んでいる間、体温がぐんぐん上昇して、読み切った後は冷房がきいている部屋にいたにも関わらず汗をかいていた。私はこの本の主人公・天羽カインの虜になってしまったらしい。

 

直木賞への執念を描く圧倒的物語『PRIZE』/村山由佳

 

 

この物語の主人公は、本を出せばベストセラー、本屋大賞にも輝いた人気小説家・天羽カイン。これまでに直木賞候補に2回挙がっているが、いつも直木賞には選ばれない。カインはどうしても直木賞が欲しかった。権威ある賞を取って、本当の意味で認められたかった。もう一人の主人公ともいえる編集者・緒沢千紘は、元はカインの大ファンだった。カインの小説で心を救われたことがあり、二人は日に日に信頼し合うようになる。

 

あらすじだけを見てみると、さわやかな成長物語に見えるかもしれない。しかし本当は、さわやかさとは真逆の物語だ。どろどろしていて、人間の悪いところを煮詰めて真っ黒にしたようなエピソードがいくつも出てくる。

 

◆承認欲求を持つことは悪いこと?

 

第一に注目したいのが、カインの『承認欲求』だ。これほどまでに承認欲求を全面に出し、周りにも押し付ける人は、おそらく嫌われるし『痛い』と思われる。

 

しかし読み進めていくうちに、私は思った。承認欲求って、本当に悪いことなのだろうか。痛いと思われなければいけないことなのだろうか。本当は誰もが持っている承認欲求。人に認められたい、褒められたいと思うのは当たり前じゃないか。

 

最近、SNSでは「承認欲求の塊」と揶揄されている投稿をよく目にする。それは整形のビフォーアフターを載せているアカウントだったり、仕事の報告をしている投稿だったり、さまざまだ。承認欲求とは、「自分ががんばった成果を誰かに見てほしい」「認められたい」という感情であり、その感情の前に絶対に「努力」がある。その努力を少しでも認めてほしいと考えることは、そんなにも醜いことなのだろうか。

 

カインは最初から最後まで承認欲求の塊だ。誰よりも褒められたいと思っているし、褒められても売上があってもそれでは足りない。とにかく直木賞が欲しくて、それで初めて自分の欲求が満たされる。その欲求を恐れもせずに口に出す姿は、最初は少し滑稽に見えたが、最後にはカインのかっこいいところだとまで思った。願いを口に出し続ける強さは、私も欲しい。口に出し続ける者だけが見られる景色がきっとあると思うからだ。

 

◆近づけば近づくほど曖昧になる自分と他人の線

 

次に注目したいのが、この物語の肝とも言える「人との距離感」だ。カインと千紘は途中からまさしく「二人三脚」で作品を作っていく。千紘は「カイン先生を誰よりも理解している」と思っているし、カインは「千紘は誰よりも自分を理解してくれている」と思っている。千紘はそのうちに自分とカインの線が曖昧になっていく。カインが千紘を頼れば頼るほど、その線は歪んでいき、やがて溶け合う。

 

おそらくこのケースは、家族でも恋人でも、今であればアイドルとファンでも起こり得ることだ。自分は自分でしかなく、他人は他人でしかない。それがどんなに近い家族でも、どんなに仲良い恋人でも、どんなに距離の近いアイドルでも。同じ方向を見ているようで、実は少し違う。たとえそれが0.00001mmの違いでも、違いは違いだ。まったく同じ考えなんて存在しないし、人はそれぞれに自分の世界を持っている。

 

この物語は、あらゆる人の視点で描かれるため、誰かに感情移入をしすぎずにどこか客観的に読める本だ。そういう視点でよかったと思う。どの登場人物も思いが強すぎて、誰かひとりの視点だと、読者にまで危険が及ぶ気さえする。それほどまでに「触るな危険」な登場人物ばかりだ。しかし誤解しないでもらいたいのは、危険でありながらも全員魅力的だ。近くにいてほしいかと聞かれたら正直いてほしくはないが、とても人間らしく惹かれる人物ばかり。そして何よりも、自分の信念を持っている人たちばかりだ。

 

こういう人たちがぶつかり合うからきっと良いものが生まれ、感情が生まれる。うれしい、楽しい、苦しい、悔しい。感情をむき出しに生きている人は時にかっこ悪く厄介だが、時に痺れるほどかっこいい。

 

私たちはカインの視点も見えれば千紘の視点も、その他の登場人物の視点も見ることができる。そうして見てみると、人が思っていることと自分が思っていることは違うのだと改めて感じる。「なんでわかってくれないの?」「普通わかるでしょ?」。この言葉を、私も人に思ったことがある。こうして冷静になってみると、きっとあのときは私も人との距離がバグっていたのだなと感じる。

 

この物語の何がこんなにも魅力的なのか。それはやはり、お腹いっぱいになるまでの、登場人物の熱量だ。最初から最後までその熱は冷めることなく、どんどん燃え上がっていく。とてつもないパワーを持った物語に出会えたとき、このような瞬間があるから私は物語が好きだしエンタメが好きなのだと思う。物語は、ただの文字の羅列だ。その文字の羅列がこれほどまでに心を揺さぶる。そんなロマン溢れる瞬間を、私はこれから先も見逃したくない。

 

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【実写化】『ブラック・ショーマン』原作感想|福山雅治キャストで見えた新しい読書体験

実写化が決定している作品の原作を読むことが苦手だ。俳優たちが決まっていると、どうしてもその俳優を頭に浮かべながら読んでしまうからだ。自分の想像力を勝手に狭められている感じがして、なんだか悔しい。しかし今回読んだ『ブラック・ショーマンと名もなき町の殺人』は、初めて俳優が頭に浮かんでいてよかったと思う作品だった。おそらく福山雅治が頭に浮かんでいなければ最後まで読みきれなかった。

 

◆『ブラック・ショーマンと名もなき町の殺人』

 

 

物語の舞台はコロナ禍に苦しむ小さな町。結婚を控えた真世は、ある日突然父が殺されたという知らせを受けて故郷に帰る。するとそこには叔父で元マジシャンの神尾武史がいた。武史は警察を頼らずに自らの手で犯人を見つけるという。かつて教師だった父を殺した犯人は、真世の同級生の中にいるのか。その謎を突き止めるために、真世も武史に協力することになる。

 

この手の話を読むたびに気づくのだが、どうやら私はサスペンスは大好きだがミステリは苦手らしい。ミステリは謎解きがメイン、サスペンスは人の感情面の描写が中心というジャンルだ。登場人物と一緒に推理をしながら読めればミステリも楽しめるのにな、と思うのだが、残念ながら私にそのような推理力はない。

 

しかし東野圭吾の作品は、これまでにも何度も読んでいるし、文体も読みやすいため、きっと読み切れるだろうと確信していた。東野圭吾の作品は私にとって不思議な存在で、熱狂的なファンではないが定期的に読みたくなる。特に『秘密』や『白夜行』などは大好きな作品のひとつだ。

 

福山雅治効果で苦手なキャラクターが魅力的に

 

今回は映画化が決定した上で読んだ。話自体は結構淡々と進むため、本作はキャラクターの魅力がこの作品の肝となるという印象だった。実写で武史を演じるのは福山雅治さん、真世を演じるのは有村架純さんだ。武史はなかなか癖のある人物で、言葉遣いなども“キャラクター”めいている。私はどうもこのキャラクターめいている“ザ・フィクション”みたいな話し方が苦手だ。正直、武史は苦手なキャラクターだった。

 

しかし武史を福山さんで思い描くとどうだろう。悪くない。というか、かなり良い。武史という輪郭がはっきりと思い浮かび、頭の中で福山さんの武史が動き回った。甘い顔に低い声、そして少し皮肉っぽい話し方で曲者。福山さんの声や話し方を想像することで、頭の中でキャラクターが生き生きと動き出し、物語への没入感が格段に増した。読み始めたタイミングで予告が公開されたこともタイミングがよかった。物語の世界が一気にクリアになった。

 

実写化が決定している作品を読むことは、自分の想像力が狭められる気がしていたが、逆の効果もあるのだと今回の読書体験で知った。本来であれば最後まで読めなかったかもしれない作品が、キャラクターをクリアに想像することによって最後まで楽しめて読めたのだ。

 

本作はもちろん事件の謎を解くことが主題なのだが「結婚」「コロナ禍」「故郷」というキーワードも色濃く描かれている作品だ。もう現在ではひとつの思い出のように気軽に語られるが、コロナ禍でうまくいかなかったことは山ほどあった。リモートワーク導入による生活リズムの変化、どことなく鬱屈とした気持ち。そのあたりにも触れているので、作品にはどことなくどんよりとした雰囲気が漂っているのだが、武史というキャラクターの濃さで一気に色がつく。武史の”元マジシャン“という経歴と、謎を解く中でのショーの見せ場は映像にしたときに映えるシーンとなるだろう。福山さんが魅せてくれる武史の華やかさが今から楽しみだ。

 

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