太宰治の文学を読めば読むほど、太宰治という人間がわからない。ただ、人間を観察する力と時代を読む力が凄まじいことだけはわかる。絶望に打ちひしがれるような気持ちになったり、5月の風を浴びたときのようにさわやかな気分になったり、夏が終わり秋の風を感じたときのように寂しくなったり、太宰治が紡ぐ文章は、幸福も絶望も味あわせてくれる。
86年前、一人の少女の一日の心の動きを丁寧に描いた小説が発表された。太宰治の『女生徒』は、思考の自由さと感情の豊かさ、思春期特有の揺れを、丁寧に描いた作品だ。
◆ある少女の一日を描いた物語『女生徒』/太宰治
この物語は、少女が朝目を覚ましたところから始まる。その後は、ただただ少女の一日が少女目線で描かれる。電車に乗って人間観察をし、自分ではどうしようもできない社会や本能で進んでいく人生に絶望したかと思えば、電車を降りるとそんなことはさっぱり忘れる。母親のことは嫌いじゃないけど、なんとなくムカつく。でも本当は大切にしたい。早くに死んでしまったお父さんが恋しい、嫁に行ってしまった姉にもう甘えられなくて寂しい。心は子どもなのに身体だけ成長して、大人になるのが怖い。私はこれからどうなるんだろう、何かになれるのだろうか。
そんなことがつらつらと書かれているのだ。物語としては何も起きていないように見える。少女が一日の中で頭の中で考えていることが文章になっている。つまり太宰治は、少女を取り巻く「出来事」ではなく「思考」を書いたのだ。
よく、誰かの日記を盗み見している気分になる小説がある。しかし本作は日記どころか、頭の中そのものを覗いたような気持ちになる作品だ。
◆自由な思考を取り戻す
とにかく主人公の少女は、頭の中で考え事ばかりしている。その考えは定まっておらず、いろんなところへ飛んでいく。周りの人を見てマイナスな気持ちになっていたかと思えば、自然に触れるとその気持ちはすぐにプラスに変わる。一貫性なんてまるでなくて、彼女の頭の中はなんて自由なのだろうと思う。
そもそも人間の思考は自由なものだ。大人になればなるほど経験が邪魔をしてその思考は凝り固まる。やってみたいことを思いついても「そんなバカなことできるわけない」と自分で自分を否定してしまうこともあるだろう。大人になると、思考も臆病になってしまう。
この少女の思考は、どこまでも自由だ。自由で瑞々しくて、たとえそれがマイナスの考えだとしてもキラキラと輝いて見える。読み手からすると彼女の一日に特別なことは起こっていない。
しかしこの少女の中では、朝起きたときの自分の顔を嫌だと思い、父のことを恋しく思い、母のことをやっぱり大切にしようと思い、大人になることが怖いと思う。さまざまなことが頭の中を駆け巡っている。少女の中では立派な物語ができている。他の誰でもない“自分”という物語だ。
彼女のように自由な思考を取り戻すことは、一歩踏み出す勇気をくれる。どんなにすごい技術でも、まずは「発想」がなければそれは生まれない。何かを成し遂げている人には遊び心があって、突拍子もないことを思いつくという柔軟な思考がある。AIが私たちの生活の一部になることを想像した人がいるから今があるのだ。
◆日常こそ物語
本作は1939年雑誌『文學界』で発表された。まさに戦時中、日本が日中戦争を拡大し、第二次世界大戦へと向かう時期で、明るいとはいえない時代だろう。新聞やラジオの力もあり、戦時色が濃い社会で、国家的な一体感が求められた時代だ。言論統制も非常に厳しく行われてきた。
その時代にここまで細やかな、読者からすれば「何も起きない」小説を描いた太宰。物語は人を救うことがある。混沌とした時代に何も起きない、少女の自由な思考を描いたこの物語は、どれだけ人の心を掴んだだろうか。『女生徒』は、日本が戦争に向かう言論統制下において時代の流れから少し距離を置いた稀有な小説でもある。たった一人の少女の、たった一日。物語は一日に圧縮されているのに、その物語から広がる思考は限りなく自由で広い。
私たちは時代を「時代」として捉えてしまう。その大きな渦の中にも、必ず人がいて、ひとりひとりの人生があった。『女生徒』という作品は、一人の人間のたった一日でも、そこに物語があることを教えてくれる。歴史の教科書に載るのは節目となる大きな出来事でも、その時代を生きた人々には毎日感情の揺れがあり、日常があり、温度がある。
私の一日も、あなたの一日も、朝からの出来事や考えたことを書き出してみると、きっと多くのことをしているし考えているはずだ。誰の人生だって、物語の一部。『女生徒』は、なにげない日常の価値や自由な発想の価値を再発見させてくれる一冊だ。思春期を遠く離れた読者にも、その時期特有の瑞々しい感性を思い出させる力がある。











