かつて、ここまで読むことが苦しい小説があっただろうか。『殺戮にいたる病』は、描写のあまりのグロテスクさに途中で本を閉じることが何度もあったが(最後まで読み、おもしろかったし読んでよかったとは思った)、息ができなくなりそうなくらいに苦しくなった小説は初めてだった。文章だけで、ここまで絶望と諦念を表現できるのはすごい。今文字を打っていても、内容を思い出すと心臓が暴れる。
『護られなかった者たちへ』あらすじ
仙台市の保健福祉事務所課長・三雲忠勝が、手足や口の自由を奪われた状態の餓死死体で発見された。三雲は公私ともに人格者として知られ、怨恨が理由とは考えにくい。
一方、物盗りによる犯行の可能性も低く、捜査は暗礁に乗り上げる。三雲の死体発見からさかのぼること数日、一人の模範囚が出所していた。
男は過去に起きたある出来事の関係者を追っている。男の目的は何か。なぜ、三雲はこんな無残な殺され方をしたのか? 誰が被害者で、誰が加害者なのか。
本当に“護られるべき者"とは誰なのか。
怒り、哀しみ、憤り、葛藤、正義……
万般の思いが交錯した先に導き出される切なすぎる真実――。
(Amazonより引用)
私はこの物語をものすごく誤解した状態で本を手に取った。映画化されていたのでなんとなく生活保護の話なのかな〜というくらいで、刑事と生活保護を受けられなくて困った青年が織りなすサスペンスなのかと思っていた。実際は近いようで近くなく、想像以上に苦しい物語だった。あらすじに「切なすぎる真実」とあるけれど、正直私としてはこんなものではない。胸が抉られそうで、言葉は悪いけど若干のトラウマ小説になった。
ここで言うトラウマ小説とは、決して「読まなければよかった」という話ではない。胸にずっしりと響き、胸に残るあまり、もうきっと二度は読まないだろうと思う本だ。読んでよかったと思うし、途中で何度も諦めそうになりながら、最後まで読んでよかったと思った。ずっっっしりと思い、チョコの濃厚なテリーヌを食べたあとのような読後感だった。ちなみに他のトラウマ本は西加奈子さんの「夜が明ける」、映画でいうと「桜のような僕の恋人」(原作未読)だ。
人間が生きていくには、さまざまなものが必要だ。「衣食住」の中で、やはり一番生命に近いものは「食」だろう。その中に「水」がある。
先日、南米ペルーの漁民が、太平洋で95日間漂流した末に救助された。彼は船で雨水を集めたり、ウミガメの血を飲んだりして生き延びたという。それほどに生き物の血や、水は重要で、生命を続ける上で必要不可欠なものといえる。
人間には「生存権」がある。生存権とは、健康で文化的な生活を送る権利のこと。その権利は誰しもにあるものだが、中にはそれが手に入らない人もいる。それが満足に手に入らなければ、そこに待つのは死だ。大切な人が、その生存権を行使できないままでいたら。自分にもその人を生活を護る力がなかったら。きっとやはり生活保護など、国に助けてもらおうと考えるだろう。
この物語はきっと、フィクションのようでノンフィクションの部分がある。この物語に書いてあることを考えると、生活保護の申請は思った以上に難解だ。そして一人暮らしのお年寄りが、重い腰を上げてわざわざ申請しに行くのだろうか?
私は自分に問う。周りに困っている人がいたら、手を差し伸べるだろうか?
こんなことを書いても、この物語を読んでも、どうしても答えは「わからない」になってしまう。私が住んでいる街はお年寄りが多いが、近所の交流は少ない。例え何か様子がおかしいと思うことがあっても「おせっかいかな」と思ってきっと私は何もしない。この物語は、その事実も突きつけられて、余計につらいものだった。
しかし、逆に「助けて」と言われたらどうか。言われたら私はきっと何かしらのアクションを起こす。そこまで大きなことはできなくても、何か方法がないかと考えることはできる。世の中には、甘え下手な人がきっと多すぎる。特に日本人は、我慢が美徳だと考える癖のようなものがなかなか消えないのかもしれない。
「助けて」と声を上げることは悪いことではない。先日見たドラマ『対岸の家事』で、「頑張ってる人に自分だけ辛いなんて言えない」というようなせりふがあった。その通りかもしれないと思う。生きている人たちは、もう少し気軽に「助けて」を使っていいのではないか。自分の「助けて」が、誰かの「助けて」の勇気になるのかもしれない。

