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山本文緒『恋愛中毒』感想|再読で見えた“狂気の恋”の怖さと切なさ

人生で心に残った本を1冊だけ挙げなさい、と言われたら、私は迷わず『恋愛中毒』を選ぶだろう。もちろん、大好きな小説はたくさんある。しかし、この本は、なぜだか私の人生と切り離せない。主人公に共感するわけでもない。好きなキャラクターがいるわけでもない。でもどうしても、初めて読んだときから今までずっと、この物語は私の読書経験の中心にある。

 

 

 

『恋愛中毒』/山本文緒 あらすじ

 

--どうか、どうか、私。これから先の人生、他人を愛しすぎないように。他人を愛するぐらいなら、自分自身を愛するように。水無月の堅く閉ざされた心に、強引に踏み込んできた小説家の創路。調子がよくて甘ったれ、依存たっぷりの創路を前に、水無月の内側からある感情が湧き上がってくる--。世界の一部にすぎないはずの恋が、私のすべてをしばりつけるのはどうして。恋愛感情の極限を抉り出す、戦慄のベストセラー小説。直木賞作家の原点。(Amazonより引用)

 

高校生のときに受けた衝撃

 

初めてこの作品を読んだのは高校生の時だった気がする。正直、高校生の私には十分に理解できなかった。当たり前だ。この話は、他者への依存や過去への後悔、未練、そんなもののオンパレードで、人生経験も恋愛経験も浅い高校生に、主人公・水無月の感情は理解できないはずだ。

 

しかし高校生の頃の私は、この本を読んで間違いなく衝撃を受けた。「こんなにもおもしろい小説がこの世にあるのか」と、とにかく驚いた。それまでにも好きな本には出会っていたが、この本は私が初めて読んだ一般小説だった。今考えるとなかなかヘビーな作品を選んでいる。この本に出会って初めて「寝ても覚めても続きが気になる状態」に陥った。

 

高校生。もちろん片思いや、今考えるとかわいらしい恋愛はしていた。その頃の私にとって、水無月が抱える未練や後悔、異常なまでの執着は、文字通り“異常”だと思った。こんな恋愛が人生にはあるのか、こんな恋愛を大人はみんなしているのか、と衝撃が走った。でもそれと同時に、たぶん少しワクワクした。いや、ワクワクするような恋愛は全然描かれていないのだが、こんなにも誰かを、ここまで執着するほど誰かを、私も愛することができるのだろうかと思った。

 

大学生の頃にもう一度読み、社会人になってからもう一度読み、そして今、もう一度読んだ。私は再読をするよりも新しい本をたくさん読みたいと思うタイプだが、この本だけは特別で、時間が経つと再読したくなる。再読のおもしろいところは、自分が年齢や経験を重ねることによってその物語の見え方ががらりと変わることだ。

 

再読で見えた物語の本質

 

私は高校生の頃、この話は水無月と創路の恋愛物語だと思って読んでいた。水無月は元夫との生活に後悔していて、創路との恋愛をなんとかうまくいかせようとする話、くらいに思っていたと思う。しかし今読んでみるとまるで違う。この話は水無月と創路の恋愛物語ではない。水無月が過去と向き合う話でもなければ過去と決別する話でもない。長編小説で物語の中ではかなりいろいろなことが起こるが、結局水無月は最後まで変わっていない。それは恐怖だ。誰と出会っても、誰と恋愛しても、結局自分の奥の奥は変わらないのか、と絶望する。もはや恋愛の初期設定みたいなものだ。

 

水無月に重ねる過去の恋愛経験

 

ここで嫌でも自分の恋愛を振り返ってしまう。私は恋愛に対しておそらく重たい方で、何年経っても昔好きだった人のことを思い出すし、初めての彼氏のことを思い出すし、なぜその彼に振られたのだろう…?と今でも考えることがある。会いたいなぁと思うことだってある。

 

初めて長くつきあって、東日本大震災がきっかけで別れてしまった彼氏のことも、結婚直前までいって親へのあいさつまですませたのに別れた彼氏のことも思い出すしずっと忘れない。もう何年前の話だよ、と自分にツッコみたくもなるが、その疑問や考えはおそらく一生変わらない。別に今は幸せだけど、正直過去と今の幸せは関係ないというか、過去はずっとつきまとうものだ。

 

現在と過去はどうしたって切り離せない。それは自分が生きてきた軌跡だから。でも、水無月のように過去に“囚われている”と、生きていくのが大変だろうと思う。水無月が抱える狂気の怖さは、水無月が自分でそれに気づいていないことだ。

 

「どうか、どうか、私。これから先の人生、他人を愛しすぎないように。他人を愛するぐらいなら、自分自身を愛するように」。これは水無月が自分と約束したこと。この言葉だけ聞くと、なんとなく「わかる」と思うし、切ない願いだとも思うが、物語を読み終わった後にはまた違う感想が出てくる。少し怖いのだ。この誓いを立てたにも関わらず、それを破ってしまう水無月のことも、過去に囚われすぎている水無月のことも。

 

「すぎる」ことの美しさと危険性

 

なんでも“すぎる”はよくない。“好きすぎる”は、それだけで狂気になる可能性を秘めている。“信じすぎる”は、裏切られたときの絶望が果てしない。でも、だからといってすべて“適度”がいいとは思わない。その“すぎる”があるから、人は喜びを感じるし、切なさを感じるし、生きていると実感することがある。そう考えると、きっと誰しもが狂気を抱えている。最後の一線を超えてしまうか、超えないかは、自分の理性にかかっている。水無月のことを他人事として見れなくなってしまったのは、高校生に読んだときよりも確実にいろいろな気持ちを経験しているからだ。もっと歳を重ねて再読をしたとき、私は何を思うのだろう。一周回って「恋愛なんかに振り回されてバカだなぁ」と思っているのかもしれない。

 

この文章は、未来でまた再読するのであろう自分へのメッセージのようなものだ。今の私は、この話を少しは理解できるようになって、切なさも感じるけれど同時に恐怖も感じている。未来の私は、どう思う?