本と映画と、少し寄り道

小説と映画の感想文をゆるゆると。

街の本屋が消える時代―子どもの頃の読書体験が人生に与えた影響

街の本屋がまた一つ、静かに幕を閉じようとしている。東京・杉並区の「サンブックス浜田山」が8月での閉店を発表したのだ。「サンブックス浜田山」のXには「閉店のお知らせ」として「約40年にわたり本を売るという仕事を続けてきましたが、営業を続けることが困難な状況となり閉店という決断に至りました」とあった。その投稿には数多くの悲しみの声が集まっていた。

このニュースを目にして、私は自分と本の出会いを思い返してみた。幼い頃からあった「街の本屋さん」で買ってもらった本は、幼い私の友達であり、バイブルでもあった。バイブルというのは「こういうときはこうしたらいいよ」と書いてあるものというわけではなく、「感情のバイブル」とでも呼ぶべきものだった。うれしくなる理由、ちょっぴり悲しくなる理由…そんなことの一部を、私は本から教えてもらった。

 

私は一人っ子で、幼い頃に一緒に遊ぶ友達がいなかった。そのためかはわからないが、気づくと家には大量の本があった。日本昔ばなしや、童話、歴史の本、どれもシリーズで揃っていた。過去に好きだった本は、すぐに思い出せる。例えば「こまったさん」シリーズや「わかったさん」シリーズ、「ぼくは王さま」シリーズ…私はいつも心がほっこりする本を好んで読んでいた。

 

 

そんな私の読書生活の中で、一番最初に衝撃を受けた本は「かわいそうなぞうだ。この本は小学2年生のとき、担任の先生が図書室で読み聞かせをしてくれた。この絵本は、戦争中に上野動物園で三頭のゾウが殺されたという本当にあった話をもとにした作品。本によって起こる「悲しい」という気持ちを初めて感じさせてくれた。私は今でもあの表紙を見ると胸が締め付けられてしまう。正直、細かい内容を覚えているわけではない。「かわいそうなぞう」=「悲しい話」と強烈に結びついている。

 

おそらく、先生の朗読というのも大きかったのだろう。私はあの図書室の雰囲気や先生の声色、そして自分の心を侵食していく「悲しい」という気持ちを昨日のことのように覚えている。それまで本の世界は楽しい世界だと思い込んでいた私は、「かわいそうなぞう」との出会いによって、悲しい話もあるのだと初めて知った。そこから私の本の世界はまた広がり、楽しい話だけではなく伝記なども買ってもらい、読むようになった。

 

子どもの頃の読書経験がすべてだとは思わない。大人になってから本を好きになった人は、私の周りにも多く存在する。しかし、人生のどのタイミングで本と出会うかは、重要なことだとは思う。文章だけで広がる想像の世界は無限で、とてつもなく広い。100人いれば100通りの物語の理解の仕方があり、同じ本を読んでも、まったく同じ想像をしている人はいない。だからこそ、読書は個人の楽しみであり、個人の想像であり、自分と向き合う機会でもある。同じ本を読んだ相手と話したり、感想を見たりすることで、「こういう考えもあったのか」とさらに世界が広がる。

 

私の両親は共働きで、きょうだいもいなくて、寂しい瞬間ももちろんあった。それでも、本の世界は、想像の世界は、どこまでも広がっていた。本を開けば友達がいたし、好きな人がいたし、きょうだいもいた。私は今でも想像することが大好きだ。この想像力は私の剣でもあり盾でもある。人の気持ちを想像する力、他の視点を受け入れる力。たまに想像しすぎてマイナスな気持ちになることもあるし、空回りすることもあるけれど、それでも大丈夫だと思えるのは、幼い頃からあらゆる想像や空想をしてきたからだ。

 

本との出会いは、人との出会いと似ている。いつどのタイミングで出会うかによって、自分の人生ががらりと変わることがある。どんな出会いも個人のもので、強制することはもちろんできない。それでも、これからの子どもたちがより多く本と出会う機会がありますように、そしてその出会いの場となる「街の本屋さん」が長く続きますように、と、願わずにはいられないのだ。