1914年に書かれた夏目漱石の『こころ』。私がこの物語に触れたのは、高校生の頃だ。国語の教科書に載っていて、記憶には残っているものの、それほど心に響く物語だとは思わなかった。しかし、改めて全編読んでみるとどうだろう。今から約111年前に書かれた物語なのに、どこか共感する部分がある。人間は「恋」という大きな魔物を目の前にすると、自分の黒い部分がむき出しになってしまう。それは現在でも過去でも変わらないことだ。
◆『こころ』の前半と後半の違い|物語が加速する先生の遺書
『こころ』といえば、『先生の遺書』があまりにも有名だ。国語の教科書にもその部分が掲載されていたが、実はこの物語は先生の他にもうひとり注目すべき人物がいる。前半はその人物・『私』の目線で語られ、物語は『私』と『先生』の出会いから始まる。二人は海で出会い、『私』は『先生』のことが気になって仕方なくなる。二人の出会いのシーンは、夏や海の表現も手伝ってかなりさわやかで、これからキラキラの青春物語が始まるのでは…と楽しい期待をしてしまうくらいだ。
序盤はかなりゆっくり展開していくため、前半で読むのをあきらめてしまう人も多いかもしれない。しかし、前半さえ乗り切って中盤に差し掛かると、物語が一気に進む。それは非常にセンセーショナルだ。故郷に帰っていた『私』の父が危篤になったとき、先生から『私』のもとに手紙が届く。そのタイミングで!?とこちらも驚くが、それは先生の遺書だった。『私』は、父親にどうか持ってくれと願いながら汽車に飛び乗り、先生の元へ急ぐ。
そして後半は、『私』が出てくることはなく、すべて先生の遺書だ。そこには先生の過去と後悔が長く長くつづられていた。前半で私たち読み手は、先生のことが何もわからない。『私』と親交を深めているのに、どこかミステリアスで、全然心の核心に触れられない。絶対に何か秘密を隠しているのに、それが全然暴かれない。
それは私達が『私』を通して先生を見ているからだ。これは夏目漱石が仕掛けた大きな仕掛けともいえよう。前半の物語の進みの遅さはここで効果を発揮する。『私』の父の命が危うくなる中盤から先生の遺書が届くことをきっかけに、物語は一気に加速する。この緩急をつけた構造が『こころ』の魅力のひとつでもある。
◆先生の遺書に描かれる恋と後悔|人間の本質は変わらない
『先生の遺書』には、恋と友情に揺れる先生の過去が書かれていた。先生は下宿先のお嬢さんに恋をしていた。お嬢さんの母親とも関係は良好で、三人の暮らしは穏やかで幸せそうだった。しかしそこで先生は自分の親友・Kを下宿先に連れてくる。自分のライバルになるかもしれない第三者を招く意味はなんなのだろう、と正直思ったのだが、それは先生がKを信じていたというか、過信していたからだ。Kは恋なんてするはずがない、と。しかし、先生の予想は大きく外れ、Kもお嬢さんに恋をしてしまう。しかも、先生がKにお嬢さんへの気持ちを明かす前に、先生はKの気持ちを聞いてしまった。
ここで先生がした行動は、読んでいても胸がざわざわした。先生の行動を疑問に思ってしまうのは、私が当事者ではなく、冷静にこの物語を読んでいるからだ。恋を目の前にすると、しかもそれが欲しくてたまらない恋だと、人の理性は簡単に吹っ飛ぶ。恋はあまりに情熱的で、時に理屈や常識を上回ってしまう。その経験は、恋をしたことがある人なら多かれ少なかれあるものだろう。先生は自分の行動により、長い間後悔に苛まれることになる。黒い影をどこかに背負いながら生きていくことになる。
心に刻まれた傷や後悔は、時間が解決してくれることはあっても、綺麗に消えるものではない。その衝撃が大きければ大きいほど、心に深く刻まれ、トラウマレベルの出来事になる。先生の遺書を読んでいると、ただただ延々と後悔をつづっている印象もあるのだが、そうやって吐き出さないといけない、自分のしてきた一挙一動を、感じたすべてを、その後悔を伝えなければならないという熱量を感じた。
ラストでぞっとしたのは、その後の『私』の心情がまったく描かれていないことだ。この重たすぎる遺書を受け取って、『私』はどう感じたのだろう。遺された先生の妻を見て、どう思うのだろう。先生の遺書のターンが終わって物語が幕を閉じると、再び物語が『読み手』目線に映る。やはり『読み手』は『私』なのだ。夏目漱石の作った、心にずん、と響く読後感に、ただただ圧倒されてしまう。
約111年前に描かれた、恋を目の前にした人間の愚かさと、無力さ。時代や文化は現在とまるで違うが、人間の『こころ』の本質は変わらないのだと痛感する。夏目漱石や太宰治、過去の文豪たちが残してくれた文章たちは、陰鬱なものも多いが、「この気持ちは私だけが抱えているのではない」と慰めてくれるものでもある。何年も前の物語でも、いつでも私たちの心の近くにいてくれるのだ。
