「バイトの〇〇さんがしんどいって言ってました」「あの人なんか怒ってるみたいです」「あの人性格悪いので気をつけてください」。前職の店長時代、一緒に働いている人たちから「らしい」「みたい」という言葉をかなり多く聞いた。店長1年目のときは、それをすべて鵜呑みにしてしまい、「こんなに優しいこの人も裏では何を思っているのかわからない」と疑心暗鬼になったものだ。
例えば「あのお客様お怒り気味です」という言葉は、バイトの子からよく聞く言葉ナンバーワンだった。少々気合いをいれてバイトの子とバトンタッチをして接客を代わると、そのお客様は怒っているのではなく、単純にサービスのシステムを理解していなかっただけ、みたいなことが何度も起きた。人から聞いた言葉というものは、すべてその人のフィルターがかかっている。それに気付いてから、店長時代の私の信条は「自分で見たり聞いたりしたものしか信じない」だった。
◼︎『悪女について』/有吉佐和子
有吉佐和子の『悪女について』は、謎の死を遂げた実業家・富小路公子の物語。彼女に関わった27人のインタビューから構成されている物語なのだが、27人とも言うことが違う。公子のことを「良い人」と言う人もいれば、「悪い女」と話す人もいる。公子は本当に悪女なのだろうか?
公子は莫大な富を築いた実業家だが、ある日、所有するビルから転落死する。目撃者はおらず、他殺や自殺かも不明。生前の彼女と親交があった人々がインタビューに答えていくのだが、読み進めていくうちにどんどん謎は深まるばかり。最後まで読んでも理解しきることができず、私はもう一度頭から再読した。登場人物が多く時系列も混乱するが、決して難しい物語ではない。
◼︎小説でもありながらビジネス本の一面もある作品
彼女を「悪女」と思うかどうかは、結局は読み手に委ねられる。結論から言うと、私は彼女のことを「悪女」だとは思えなかった。途中で男を騙すようなことをしている描写があり、それによって不幸になる人が出てくる。彼女の行動すべてを肯定はできないが、「なりたい自分」を徹底的に追求する姿勢には、シンプルに尊敬の念を抱いたし、学ぶべきものもあると感じた。
彼女はおそらく幼い頃から「なりたい自分」を持っていた。そのために近所に住んでいた公家華族出身の女性の上品な言葉を盗み、仕草を盗み、自分を作り上げていく。理想とする自分になるために、相手によって話し方を変え、人の心までも盗んでいった。そこまで徹底して自分を作ることは、簡単ではなかったはずだ。
公子は夜学に通って簿記を学ぶなどして積極的に知識をつけていた。なりたい自分になるための努力を惜しまず、自分で得た知識を使って人の心と金を動かす力は、かっこいいとさえ感じる。本作は優れた小説だが、ビジネス本としての役割も担っていると思う。
◼︎受け取り側のフィルターで変わる人物評価
人は誰でも多面的だと思うし、万華鏡のようなものだと思う。眺める角度によって、見え方が違うのだ。ものすごく明るい色に見えることもあれば、暗い色が重なって見えるときもある。そして受け取り側にもまた、自分の価値観からできたフィルターがかかっている。
以前、女優の芦田愛菜さんがイベントで発言した言葉が話題になった。「信じること」について芦田さんは、「『信じます』ってよく聞く言葉ですけど、それはその人ではなくて、自分が理想とする人物像に期待していることなのかもしれないと考えたんです。だからこそ人は『裏切られた』とか言うけれど、それはその人の見えなかった部分が見えただけであって、そのときに『それもその人なんだ』って受け止められる揺るがない自分がいることが信じられることなのかな、と思った」と話していた。
公子のことを「悪い女」と表現した人物は、自分の理想像を公子に当てはめていただけかもしれない。そしてこの物語のおもしろいところは、すべてが人からの目線で語られているため、本当のところはどうなのかわからないことだ。だからこそきっと読み手によってさまざまな答えがあり、考えがある。結局のところ、自分で聞いて自分で感じてみないと、人のことはわからない。たとえ自分の理想と違っていたとしても、自分の目を、耳を私はずっと信じて生きていきたいと改めて思ったのだ。
